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「知っている」ということ

  • 2010/04/08(木) 00:45:49

「知っている」っていうのも結構曖昧な話だと思います。



例えばね、とある小説家の名前を挙げて知っているか聞いてみる。
聞いたことぐらいあれば当然知っていると答えるのだけれど、それだってどの程度知っているのかわからない。

もし、どこかで名前を聞いたことがあって、たまたまその記憶と話に上がった人物との名前が一致した。
この場合は「知っている」とは程遠いと思います。せいぜい、「聞いたことがある」というところでしょう。

特定の小説家について「知っている」というからにはその人物の小説を最低読んでいる必要があると思います。
複数冊読んでいる人ならその人がどんな傾向の文章を書くのかというのもなんとなく理解しているでしょう。
また、文章は作者の心を映したりしますから、この人がどんな考えの持ち主なのか分析みたいなこともしちゃっているかもしれない。
そして、作品について自分はどんな感想を抱いたのか。その結果、作者の作品は自分の好みか、そうでないか、もしくは人に薦められるような作品なのか、薦められるならどういった点に注目してほしいのかということも説明できるでしょう。
もし自叙伝など出されていたり、雑誌でインタビューを受けているようなことがあれば、その人の人物像や考え方というのを知るいい機会になるかもしれない。

理解の深度については程度こそありますが、「知っている」ということは半ば経験や体験と結びつくものであると思います。



もっと根本的な話をすると。

私たちは文字を理解しているけれど、どうして文字を理解できるのかはっきりと説明できる人はそうはいないと思います。
これが文字であり、他人もこの文字を理解しているから共通の理解事項として使っている。実態はなんだかよくわからないんだけど知っているから使っている、とか、そんなものなんです。
要するに「あ」は「あ」なんだと理解している。でも「あ」がなんなのか、実際は説明できない。ただ、経験的に「あ」は「あ」以外にはなりえない。だから「あ」は「あ」なんだ、と。

例えば、人体だってそうです。
誰もが腕や足を動かしたり、目で物を見たり、耳で音を感じたりできますが、なぜそんなことができるのか、実際には説明できないと思います。脳科学的には細胞の電気信号とかなんとか説明されているようですが、果たしてその電気信号をはっきりと感じることができる人がいるのでしょうか。よしんば、感じられる人がいたとして、それはごく少数であると思います。

同様に、歩き方についていちいち考える人もそうそういないと思います。いちいち右足を動かして、体の軸を意識して上半身のバランスを取って、なんて考えながら歩いてたりとか、しないですよね。それどころか、意識するとかえって歩き方がよくわからなくなってしまったり。
逆に赤子が歩けるようになるまでは何度も転んで、自ずからバランスの取り方を覚える必要がある。そうして足で立つことを覚え、歩くことを覚える。
でも歩き方を言葉で説明しようとすれば、はてどうやって伝えよう?ということになります。

赤子の時の記憶が私にあるわけではないので想像でしか物を言えませんが、恐らくは両親や接してくれる人々が二足で歩いているのを見て、彼らはそれを真似てみようとするのだと思います。言葉ではなく、実際にやってみることで覚えていく。最初は見よう見まねで。最初はうまくいかなくても、繰り返し行ってみることで体が覚える。

だから、歩けはするけど、そんなの、歩けるんだからしょうがない、としか言いようがない。



「知っている」ということが「言葉の意味を知っている」という程度のものなら、私たちは言葉を介するだけでなんでも理解し合えます。
でも実際はそうじゃない。体ひとつとっても、言葉では説明がほとんど不能なことを、私たちはそれほど意識することもなくさも当たり前のように行っている。
それがどうしてそうなのか、敢えて説明っぽいものをつけるなら「経験的に知っているから」ということになるでしょう。



だから、「知る」というのは表面上をなぞるものではない。
自分の五感をフルに使って感じ取り、それを咀嚼して自分なりに理解を深めていく、そうしてはじめてそのものについて「知った」と言えると思うのです。
誤解のないように補足しますが、言葉は理解する手段にはなりえないとは言っていません。ただ、言葉だけでは説明できない、身体機能を使って経験で覚えていくしかないことも確かにあるのだと言いたいのです。



ぶっちゃけると。

歴史上の人物名を百覚えるよりも、一人の人物にスポットライトを当てて生涯でどんなことをしたか調べるほうが得るものは大きいと思います。雑学として考えれば百の人物名を覚えていることは凄いと思うのですが、「じゃあその人たちは何をしたの?」と聞かれて「わかりません」ではやはり真の意味で知っているとは言えないと思いますので。

まあ百の人物名を覚えていて且つ一人ひとりなにをした人物か答えられるほどに博識な方であれば土下座して謝ります。というか私に土下座を強要する暇があるなら、さっさと歴史学者になってご鞭撻してください。



最後のはどちらかというと軽いジョークですが。

学習というものの本来の姿も1から10まですべて言葉で説明してわかるというものではなく、学習する者があれこれ試行錯誤しながら、なんとなくこういうものと納得していくことなのかもしれません。



拙い文章の上、支離滅裂ではありますが、皆様の「知る」ということへの一助となれましたら、これに勝る喜びはございません。

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