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デス・エデュケーション

  • 2008/11/25(火) 19:57:33

今回の記事は人によっては不快に思われるかも知れません。
なので追記に記すことにしました。

テーマは人間の生と死についてです。
内容としてはかなり厳しいものになっているかも知れません。
人によっては本当に吐き気を催すものになると思います。

そのときはどうぞ引き返してください。私は読むことを強制もしていないし、無理をして最後まで読んで欲しいとも思っていません。
直視すべき問題ではあるものの、誰もが素直に受け止めきれる内容でもありません。ことは生命の尊厳やその在り方を問うものです。ゆえに、辛い。

以下、追記に記します。

生命ある限り、人が死ぬことは避けられない運命です。
ならその死を平等に扱うことができるのか。

私の答えは、ノーです。

死そのものという事象だけを見れば、死は死でしかありません。事切れたそれは、すでに活動を停止した躯です。ただ、さっきまで微笑んでいたものが微笑まなくなっただけの話。
なら、なぜ私たちは人の死に何か想うのか。
死を単なる死と捉えるなら、私たちはこんなに苦しまなくていいはずなのに。

今、この瞬間にも多くの命がなくなり、あるいは、生まれています。その膨大な生と死のそれを一緒くたにできるか。

これも、私の答えはノーです。

99%以上の死。それは私にとって同等のものです、おそらくは。冷たいようだけれど、赤の他人の死に嘆くということを私にはできない。
ですが含まれる99%の中に他の99%と同列には数えられない死に直面した人間は必ずいるのです。
生前大切に思っていた人であればあるほど、その死はより特別な意味をもつのです。

大切に飼っていた猫の死。その死に際に立ち会う機会が私にもありました。遠い過去の話です。
その姿を見て、私は涙を流し号泣しました。

人によっては、たかが猫です。それは仕方のないこと。
ただ、やはり大切に思っていたものの死は、それに比例して悲しみを増大させるものなのだと、それだけはわかってほしい。



では、死は暗い未来を表すだけのものなのか。
絶望しなければならないものなのか。

この答えについても、私はノーと唱えます。

それは生命の在り方に関わる話なのですが。
人は喪失を知っているからこそ幸福を得られる存在なのではないでしょうか。
いつか訪れる死の瞬間。誰もそのことを普段は考えないけれど、どこかでそのことを知っていたり、本当に無意識のレベルで考えていたりするのだと思います。

喪失と獲得は常に表裏一体。私が最近得た真理です。

なら、人の死を期に、私たちは何かを得られるはずです。それを目を逸らさずに直視し、得ること。それが亡くなった方に対して行える最大の生命への尊重なのでしょう。
死の瞬間、彼が(あるいは彼女が)発したメッセージを受け取ること、そして、ただの亡骸となってまで伝えようとする何か、それを受け取ることこそが私たちに課せられた使命であるのかもしれません。



私たちが普段、辛いと考え避ける死という問題。
ですが、そこに何かを見出せるのであれば、私たちはもっと生をリアルに実感し、今生きているこの瞬間を大切にできるのではないか。

悲嘆に暮れるのは仕方のないこと。でも、その先を得て、彼にはより生きることの大切さを知って欲しい。
その思いからこのような記事を書きました。

今は大いに悲しみなさい。誰にもそれを否定する権利などありはしないのですから。

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